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基本、日本人は馬鹿なんだろう。
2013年01月27日 (日) | 編集 |
AKBの河西の子供の手を使った手ブラの問題を小林氏などが批判している。

おいらにはどうでもいい話である。

韓流などでは小林氏なども2ちゃんねらーなどと意見が食い違ったりで双方で好き勝手に議論しているようだが、この国の常識ってやつは本当に不思議だなぁと思う。

いじめ問題などでもそうだが、一方ではイジメに対し厳しい意見や過剰とも思える反応をするのに、テレビで日常的な表現に対し異様に肝要だったりしているのだ。

昨今のテレビでは芸人が頻繁に登場しどうなの?って表現が横行していないかとおいらは懸念している。

体罰にしてもいまと昔ではそもそもの考え方は違っているのだろう。
教師が教師としてやっていくことを教鞭をとるという表現があるが文字通りで見れば教えるムチを取るということだろう。生徒にムチをもって教えると見れるのではないか?
個人的な見方ではあるが海外の映画かなにかで教師がタクトのようなものを持っているのを目にしたことがあるのだが、昔の人はあれをムチに例えたのではなかろうかと思うのだ。

いまでは体罰とはなんぞ?の議論も曖昧に体罰は禁止されている。

テレビの話に戻すが、関西では普通に見ているであろうどつき漫才というものがある。
文字通りボケに対する突っ込みで相手をどつくのである。
NHKで見たのだがイギリスでは体罰に繋がるとハグすらも禁止のところがあるという。
ダウンタウンの浜田など縦社会の吉本など芸人は上には逆らえないのだろう。
芸のうちかもしれないが日常的に上の立場からどついたろか?などと言ったり実際に叩いたりしているのである。芸とはいえ普通に見ればこれってのは立派なパワハラである。
叩けば暴力だろう。
ところが教育者ってのはこういうものには理解があるのか規制する動きはない。

バラエティー番組をみてみると罰ゲームなどが普通に行われている。
罰ゲーム=体罰なのではないんでしょうか?
子供にやれば体罰で大人が了解の下でやればただのゲームなのでしょうか?
こういってはなんですが、大人の世界では仲間内でやっていれば遊びで済むかもしれませんがギャラが発生した中でこうしたゲームをするってのは金を出す側が常に強者であり金を受け取る側は否定することができないんじゃないんでしょうかね?
否定しても良いんですが出演はないでいいね?と言われれば嫌でもやるとなったらどうなんでしょね。
Bチームでもいいか?ときかれた生徒と 嫌なら出演なしね と言われるタレントと同じにしか思えないんですよね。
これを日常的に放送しているのが日本なんですよね。
まぁどこの国もそうなのかもしれませんが、矛盾していると感じない人が多いってのは理解していないでしょう。
簡単に言えば全くのプライヴェートでない状況において力関係なんてものはどこにでも存在しているだろう。

体罰とはなんぞやという議論もないまま体罰を禁止しても、イジメ問題をいくら議論してもいまのままではおおきな改善は無理だろうとおいらは思う。

だって基本的に矛盾だらけなのだから。
構造がそっくりなのにあれはいい、これは駄目とやっているだけにしか おいらには見えないからだ。
日本は日本人だけが持っている感覚ってのはあるのだろう。
それが存在しているからアメリカのような起訴社会にはならないのだろう。
しかし、それってのは反面で危険なことでもあるのはこうやって見せる物は平気だが、こうやったら駄目などとやっていることにしか思えないのだ。
その判断基準が曖昧なまま物事を片付けているだけなんだろう。
その時々で落としどころを探っているようでは根本的な部分は解決しないだろうと思えるのだ。

まぁおいらがここでこんなことを言ったからといって何も変わらない。
 
おいらも別にどつき漫才を止めろと言っているわけでも芸人を出すなと言いたいわけではない。

あれはいいけどこれは駄目という基準もなにもかもが日本は実に曖昧であることを言いたいだけなのだ。
そして不思議なことに子供へ甘すぎることを言いたいだけなのだ。
子供は未来への宝だとは思うが、だからこそその教育にはもっと真剣な議論が必要なのだと思う。
体罰禁止でも構わないが、反対派を説得すべしである。
多数決は民主主義の基本かもしれないが、それだけでは解決しない問題もあると思う。
体育科の入試は無くす決定後に生徒が8人で記者会見をやったが、それについてどうこう言うのも結構だがおいら個人としては少人数か大人数かはどうでもいいことと思うが生徒にも体罰を容認する声があるということを大人は知るべきなんだろうと思う。
口で言えば解かるのならそうするべきだが、挨拶代わりの暴力でも良しとする人間がいたっていいんじゃないかと思うのだ。
こんなものは個人の考えで自由だろうと思うのだが それでは駄目だという人がいてもおいらは構わない。
なぜ駄目なのかを説明し納得させればいいのだろう。
しかし、個人的には難しい話だと思うね。
教鞭という言葉を作ったひとはなぜこの字を使ったのかを考えればその字が適切に思える理由があったのだろう。時代は変わるのかもしれないが、人間の本質が大きく変わることはない気がする。
戦争については何時の時代にだって誰かが被害にあいやるべきではないと考える人はいただろう。
しかし現実にはいまでも世界のどこかで紛争は続いている。
中国を見てもいまだに国境をめぐる火種を撒き散らしている。

市長のやろうとすることも現実では反対意見がかなりあることを考えればひとつの結論を得ることでさえ難しいのは明白だろう。
本当に正しい結論があり、体罰が駄目というのなら正しい説得で反対意見ももっと減らせれるのではないだろうか?現実では多数決で体罰はすでに禁止されている。
これは単純に多数決で決まった結果だからいまだに体罰賛成論ってのが存在するのだろうとおいらは思う。
しかし結果を見れば自殺した少年がいてもなお体罰は必要という意見が無くならないのである。
 
ちなみに市長のやろうとしていることへの反対意見ってのは体罰を容認するということではないことも付け加えておく。教師をかばうことがあったとしても体罰容認ということでもない。
一緒に苦楽を共にした人と続けたいという思いの人だっているのではないんだろうか?
一緒にやりたい=体罰ありで受け入れるという図式に置き換えるのは間違いだろう。

まぁなんだ  所詮大人だって矛盾の中で生きているんだ。
そんなものだと知っておいたほうがいいと思う。
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